私が素直な気持ちを思い出すのは
木々や、草花、空や、風や、海や川
自然に触れたとき。
私ってこんなに優しかったんだなあって。
人間って難しいって感じることがある。
どんなに優しくいようとしても、ふいに暴力的になってしまうこともあるし
どんなに優しくいい人でいられたとしても
自らを残酷だと感じるような事象から切り離せなくて
私がいい人でいられるとしたら、それは私が怖いとか、嫌だなあと感じる役回りを引き受けずに済んでいるからだよって
だから私はいい人なんかじゃないって
ちょっと、いや、相当悩んでいた。
今もそれを考えると、息が詰まるようだけど。
自分自身を引き受けること
自分の人生を生きること
自分の考え、意見をもって、それを表明して生きるというのは、とても勇気がいることだと思う。
ひとりぼっちで、それでいて他者と調和して、協力して生きることは、とても勇敢なことだと思う。
誰かがこう言っていた、帰属できる集団があるから、というのに甘えずに、だけど集団と戦わずにいることができるのか?
というチャレンジ。
行き詰まったときは散歩に行く。
すぐに引きこもろうとする私にとって、外へ出ていくのは大事。
風にあたったり、鳥の声を聞いたり、植物や小さな虫と触れ合ったりすれば落ち着く。
その度に、私視野が狭くなってたわ、と思い知る。
大体、過去の経験から勝手に思い込んでいるだけなんだよねえ・・・
考えすぎたり、「思考のお化け」に取り憑かれた時は
「実際に」見たり、触れたり、感じることでバランスをとること!と学んだ。
ここ数日、地球、大地という「母」のイメージに、しっかりと繋がっている感じ。
今朝は身籠ったマリア様の穏やかで、満たされたイメージが浮かんだ。
私には人間の私の母がいる。
そして、さらに大きな「母なる意識」に保護され、育まれている感覚もある。
すべての「母」のイメージと繋がっている感覚。
そして、私は共犯者でもある。
私は肉体としては母親ではないけれど、とても強く「母」を自分の中にもっていると感じることがある。
同時に小さな子供でもあり、おばあちゃんだなあって時もある。
いつもただ、巡っていく生と死を呼吸しているような、見つめているよう。
「母たち=娘たち」は孤独だ。
そして繋がりを、触れ合いを
存在のあたたかさを求めているのだ。
私はその寂しいような、切ないような
彼女たちの愛を、今こうして書きながら
そうだったんだなあ・・・
と・・・